最後の大糸線

廃止になるかもしれない大糸線に往復乗車した。

行きの日中は鉄道ファンの団体列車だったが、帰りの最終は僕一人の貸切列車。

1981年の初乗りのときは、京浜東北色の旧型国電と確かキハ52系気動車を乗り継いだっけ。連れて行ってくれた父親と信濃大町でカレーライスを食べ糸魚川で赤ちょうちんに入り寝台特急北陸号で帰京した。

今はもう車輌も運用も変わって、あんな重厚なのではなくて軽快で味気ないのが走っています。

終着駅の糸魚川では、居酒屋でひとり新潟の地酒謙信を楽しんだ。

ファミリーヒストリー探訪

加賀藩唯一の勤王派の志士と云われるひいひいじいさんの事績を訪ねて金沢と富山を旅した。

明治維新の一番大事な時期に座敷牢につながれていたし、維新後に新政府に入ったものの偉そうにする薩長の人達に嫌気がさしてさっさと金沢に帰ったし、あまりパッとしない人物ではあります。

今回は生まれたとされる高岡に行ってみた。郊外の吉久という集落に当時加賀藩最大の米蔵があったという。おそらく下級武士のご先祖は米の管理のために金沢から赴任していたのだろう。それから、吉久の川向こうは伏木だが、そこの北前船の廻船問屋にひいひいじいさんの弟が養子に出され、その子供がのちの小説家堀田善衛だという。

江戸の昌平坂学問所にいた若い時分に高杉晋作や切腹した広島藩某とつるんで三羽烏と呼ばれ江戸の街を闊歩して飲み歩いたという逸話や、座敷牢につながれていた時分には奥さんであるひいひいばあさんが心配して毎日食事を差し入れたという逸話を聞いて、血の通った親しみをちょっと感じた。

銘酒の小藩

霊峰鳥海山の山麓に位置する秋田県の矢島の町を訪ねました。

旧国鉄矢島線は由利高原鉄道鳥海山ろく線と名を変えています。

矢島藩は、江戸初期と明治初頭にのみ存在した不思議な小藩ですが、小さいながらも城下町としての面影があり、町には生活のためのお店などワンセットそろっています。

ある本荘の人によれば矢島の人はプライドが高いそうで、独立独歩の孤高の気質があるのかな。だからこそ、鳥海山観光では立ち行かなそうな盲腸線も今日まで存続しているのかもしれません。

出羽山地の東向こうの横手からこの路線に接続する予定で東由利まで敷かれていた羽後交通横荘線の鉄路はすでに1971年に廃止になっています。平成の大合併で、現在は矢島も東由利も本荘もすべて広大な由利本荘市の市域ですが、地域の一体性がどこまであるのか旅人にはわかりかねます。

銘酒「鳥海山」で知られる矢島の老舗天寿酒造の蔵開きは来週だそうで、訪ねるのがちょっと早過ぎた!

マタギの里の鉄道

秋田内陸縦貫鉄道に乗って阿仁のあたりを訪ねました。ブナ帯やマタギの里で知られますが、僕は昔この地域に縦横に敷かれていた鉱山鉄道や森林鉄道に興味があるのでいろいろ聞いて回りました。保存された車輌や鉄索、1875年製の貴重な赤いレールなどを見ました。でも、ちょっとの滞在では廃線跡など簡単に見つかるわけがありませんね。

白いガードレールのある道は阿仁合駅近くの高台で、かつて鉱山鉄道の起点になっていたところ。北海道からも技師が来たり昔はかなりの人口だったそうで驚きました。

左に建物のある開けた所は比立内駅近くのかつての貯木場の跡。森林鉄道の起点だったそうで、建物は今も森林事務所で、そのほか保育園や老人ホームの敷地になっています。

わずかですが収穫もあり充実した一日になりました。

大鰐温泉のオオワニ

青森県の大鰐温泉に来ています。宿のおばさんが気に入って、同じ民宿に3度も泊まっています。

最初はまだ幼かった息子と二人で。宿の大きなお風呂を見て、「これ潜っていいお風呂?」とおばさんに息子が聞いたら、「津軽の殿様が眼の治療をしたから大丈夫よ」と教えてくれたのが思い出されます。2度目はサハリン出張に東京から鈍行列車ばかり乗り継いで行った際にわざわざ立ち寄りました。

おばさんはもう86歳とのことですが、これからも何度も訪ねたいと思います。

ちなみに、大鰐温泉の名物はもやしらしいです。

復興の被災地

4月14日から17日にかけてJR東日本の企画切符で北東北を旅しました。その時の思い出です。

震災の被災地へボランティアに出かけてからちょうど10年たって、そろそろお訪ねしてもいいかなと思い三陸を再訪しています。

土地のかさ上げや防潮堤の整備で風景は一変していました。でも、復興はこれからも続くのでしょう。

三陸鉄道に乗車するのは、思えば1984年の開業の年以来じつに38年ぶりです。ほぼ乗客は僕一人で貸切列車状態だったので堪能しました。