(1)漠河(モーホ)まで
今年8月に数日間、大興安嶺を旅した。それは、かつて1942年に同地を探検した京都大学の北部大興安嶺探検隊の探検記録を読んで触発されたからだ。その探検隊は学生を主体としたもので、当時、人跡未踏で“白色地帯”と言われ、軍の防御線の外側だった同地を辿った画期的な探検と云われる。ルートはハイラル近くのドラガチェンガ(三河鎮)から黒龍江に面した中国最北端の漠河までの800kmほどで、馬やトナカイを使い2ヶ月近くかけた行程だった。自分も京大の探検的伝統の最末端に連なっているし、今その場所がどうなっているのかこの眼で確かめたいと思ったのが旅の動機だ。私の場合は探検の終着点だった漠河にまず行き、そこから南下する道を選んだ。
8月7日、チチハルから鈍行列車に乗り込んで一路北上した。市街を出ると一面トウモロコシとヒマワリの畑が果てしなく続く。数時間走ると大地に起伏が見られるようになり山脈が近いことがわかる。南斜面にシラカンバやマツなどが生えている以外は草原が広がっている。青空の下のこの森林ステップの景観は素晴らしい。探検記には公園的景観として描写されている。暗くなって夜遅く街の明かりが見えてきた。ジャグダチ(加格達奇)という場所だ。山中にしてはとても大きな街だ。探検記には、もしも交通機関が整備されれば大興安嶺は林業で栄えるだろうという予言が述べられている。実際に60~70年代から林業を中心に開発が進み、この辺りは大きく変貌したと聞く。
一夜明けると、車窓は鬱蒼とした森林の山脈に覆われていた。ところどころ停車する駅ごとに、真新しく整備された町並みが見られた。朝8時過ぎに漠河県駅に到着した。かつて棲林集(チーリンジ)と呼ばれ、探検記には入植者4戸からなる小さな集落でオロチョンの集合地でもあるとのこと。棲林とはオロチョンのことだという。現在はこの場所も木材の集積地の町となっている。ここから黒龍江沿いの漠河までは舗装された道があり、車で1時間半ほどで行ける。道の入口に検問所があった。国境地帯だからと察したが、これは火器の検査だった。煙草とライターは持ち込み厳禁だという。事前に運転手に促され急いで隠した。漠河までの途中に老溝(ラオコウ)がある。19世紀後半にゴールドラッシュで賑わった場所だという。探検記には、世界各地から一攫千金を狙った荒くれ者の山師たちが集まって最盛期には1万人以上に達し、彼らはどこの国にも属さずに自治を行い、ジェルトゥガ(漠河のロシア語名)共和国と呼ばれたそうだ。探検された当時はすでに寂れていたものの、この一帯は国境地帯であることと採金業の名残りで開拓者精神に溢れた緊張感のある場所として描かれている。現在では、老溝は小さな集落で、沼地に一台の古びて錆付いた機械船が浮いており、ベルトコンベアーで土砂を汲み上げては中に取り込み後部から排出している。これから砂金を観光資源として活用するという。そこから20kmほど北上して目的地の漠河郷だ。道中よくバイクのライダーたちと行き交う。聞くと広東省など南方からのツーリングが多い。漠河の入り口には「南に三亜(海南島の地名)あり、北に漠河あり」という看板。探検された時代から60年あまり、漠河はすっかり観光地となっていた。
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(2)黒龍江で丸坊主
漠河の村に着き、一泊10元の宿屋にひと落ち着きしたあと、さっそく黒龍江に向かうことにしたが、さてどちらの方角だろう?村の中心部には観光地らしく漢語と英語で丁寧な案内板があったのでその指し示す方向に進むが、どんどんさびれていく。やっと村はずれに黒龍江を見つけた。大河に臨む場所だから河を中心に村が営まれているのだろうと思ったが、村の配置はまったく河を考慮に入れていないようだ。村の北側に河が流れているという方角上の問題もあり、家々は河を背にした高台に立っている。以前に訪れたロシア沿海州のナナイ族のシカチアリャン村は、アムールでの河漁を重要な生業としていたし、村も河を臨むように成り立っていたはずではなかっただろうか。シカチアリャン辺りに比べると川幅は細く、黒々とした水が滔々と流れている。河辺には、広場に中国最北端であることを示す石碑があるほか小さな船着場があるだけだ。河原では、一人だけ地元の人が投網を投げている。私もさっそく持参の釣具で釣りを始めた。疑似餌のワームを使って投げ釣りをしたけれど、さっぱり当たりもない。大物釣りを期待していたのに残念だ。午後から雲行きも怪しくなり雨も降り出し、結局丸坊主のまま引き上げることにした。小雨の中、どこかで飼育されているのだろうトナカイの群れが河原を走り抜けて行った。もちろんオロチョンのものではない。夕方雨が上がり村を散歩すると、ロシア風の平屋建て丸太作りの民家をよく見かける。どの家も明るい色に塗り、庭にはヒマワリなどの花を植え、ちいさな菜園を持っている。まるでシベリアに来たかのように感じた。村の土産物屋でもロシアの雑貨や食品を売っているが、ここでは直接ロシアとの交流はない。近年は河を挟んでかなりマイナーな地点でも中露交流が盛んだが、ここは対岸のロシア側に村がなく森林が広がっているだけだからだ。釣った魚を料理してもらうつもりだったけれど丸坊主なので、地魚を食べさせてくれる店に出かけた。そもそもそんな店を見つけるのが難しく、しかも出てきたのは体長5cmあまりの小魚の塩焼きだけ。本当に河とは無縁の生活なのだなあ。
ところで、紹介した60年前の探検記では、ロシア化した馬オロチョンと“シナ”化したトナカイオロチョンについて、ロシア正教という精神的支柱を得て生活の向上した前者と今だシャーマニズムや風葬などの奇怪な風習を残し阿片に溺れる後者という描き方をしている。それを、等質な一つの文化に対して加えられた二つの文明化の実験と述べ、両文明の優劣を論じている。曰く、「シベリアの開発に成功したロシアと、ウスリーをうしない、外モンゴリアにそむかれたシナ」と。その上で、「この国境をゆく旅人は、不つりあいな強い力をもって、シベリアのがわにひきつけられる」と。60年の時を経て同じ場所に立った旅人は、少なくとも経済上の面から、どちらに心ひきつけられるだろう?
漠河では、朝7時~昼1時、夜7時~深夜0時までしか電気が来ないそうだが、この日は早くも午後7時半には停電になってしまった。でもケータイは大丈夫。漠河に来た記念に日本の友人に写真付きのEメールを送った。時代は変わったものだなあ。さて寝るか。かくして、「金鉱町のなごりで、おまけに軍隊も駐屯していないから、人心は殺伐をきわめ、二挺拳銃が横行して、武装しないでは町もあるけない」と云われた漠河の夜は平穏に更けていく。
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(3)河と森
漠河で一夜明け、出立の前にもういちど黒龍江を臨む。60年前の探検隊の一人はこの河での船旅で印象深いエピソードを記していた。船に乗務する少年のボーイが隊員の一人と懇意になり、次の寄港地に“いいもの”があるからぜひご覧になりなさいと勧める。隊員が上陸して林を分け入っていくと、空き地に誇らしげにそそり立つ円錐形の姿を見つけた。赤蟻の大きな山形の巣だった。すでに数人の日本人がそれを取り囲んでおり、面白半分に火をつけて燃やし、手に手に枝を取ってかきまわしたため、ついにみごとな巣は無残に破壊されてしまった。船が再び出港した後、ボーイは怒りに燃えた顔で「あんたがこわしたんだろう」と声をふるわせて詰め寄り、隊員はこのときはじめて、彼の“いいもの”が何であったのか悟ったという。信頼を裏切られたボーイは以後、隊員に口を聞くことはなかった。『一度うえつけられた「日本人」への不信の念は、年とともに成長するであろう。われわれの「こどもっぽい」いたずらの結果は、そのような民族間の心の傷をつくるきっかけとなりはしないだろうか。』と隊員は述懐する。ささいなエピソードではある。けれども、かつての大陸での日本人の行為の一側面を象徴するものではないだろうか。そのボーイは今も健在なのだろうか。
黒龍江に別れを告げ、もと来た道を南下して列車を降りた漠河県という中心地まで戻った。かつての4戸の小集落はいま人口数万におよぶ林業都市だ。ここでは火災紀念館を訪ねた。1987年5月6日に人為的なミスで北部大興安嶺一帯は大規模森林火災に見舞われ、45日間延焼して中国側で120万haが焼失し、200人以上の死者が出た。今まで知らなかったのだが、それで火器の管理と入山が厳重に管理されているわけか。それなら各所で焚き火をしながら踏破したかつての探検隊と違って、いま一旅行者が渓流釣りを目的に勝手に森に入ることができないのも無理はない。回復には長期間を要するから大切に森を育てているのだ。後で調べてみると、ソ連側のほうが被害が甚大で360~600万haが焼失し、合わせると世界の針葉樹の1割以上が失われたとのこと。けれども紀念館では、ソ連側の被害の展示はあったのかもしれないが気がつかなかった。最近の松下江からアムール河下流にかけての汚染問題も頭をよぎる。こと国境をまたぐ環境破壊への対応の難しさを感じる。自然という“いいもの”を守るためには、“線”などを設けてはいけないのだ。
さて、漠河県からいよいよ、かつての探検隊が北部大興安嶺を踏破したルートを逆に南下する。しかし今では探検なんてものではない。本隊の通過ルートはほぼ道路と鉄路でつながれているからだ。今日は漠河県からマンクイ(満帰)鎮という町まで。1日1本の午後1時に発つマイクロバスは120km余りの道のりを3時間半ほどで結ぶ。未舗装とはいえしっかりした道をバスは砂埃を巻上げながら飛ばしていく。ロチョウコウという川筋だ。周囲は鬱蒼としたマツやシラカバの森林で、ところどころ林業基地に止まっていく。「戸外での一服、即公職追放」なんて標語が目に付く。心しなければ。遠くには低い山並みが続いている。山嶺とはいっても目立つ高い嶺はない。分水嶺を越える辺りは、かつて探検隊が基地を設けた場所のはずだ。今は黒龍江省と内モンゴル自治区の境界の検問所がある。そこで小休止して出発すると、南に開けて日差しがよくなったせいか、なんとなく明るい雰囲気を感じる。道は下り坂となり、今度はニジネ・ウルギーチという川に沿ってますます快調に進む。かつての探検隊のメンバー達は心を躍らせながらこの辺りの道なき道を歩いて行ったのだろうか、などと感慨にふけっているうち、森林が切れ忽然と町が現われた。もう終点のマンクイ鎮だ。あっけない。探検隊は10日の行程でこのルートをたどったのに。
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(4)白色地帯も今は昔
マンクイ鎮に着いて、とりあえず駅前の旅館に今晩の宿を取ってひと落ち着きする。高校生くらいのまだ少年の面影を残す若者と相部屋になった。宿代は一人5元だ。通りに出てみると近くに登山用階段のついた小高い山が見える。まだ午後4時だからとうぶん明るいし、山に登って景色を眺め、ついでに近くの川で釣りでもしてくるか。宿の自転車を借りてさっそく出かけた。
その山は凝翠山という。標高980mで693段の階段をひたすら登る。頂上に着く頃には汗だくだくだ。頂上にはさびれた電波塔があるほか何もない。私のほかに一組のカップルも登ってきたが裏の茂みに消えていった。頂上からは南に眺望が開けている。遠方には大興安嶺の山並みが望め、鬱蒼とした森林が続いている。眼下には町の名の由来であるマンクイ河が流れており、少し西の下流で南から流れてくるビストラヤ(激流)河と合流している地点が見える。そうした広大な緑色の風景のなか、足下の山裾にマンクイの町並みの灰色と地肌がむき出しになった木材置き場の黒色が広がっている。おそらく、60年前の探検隊の隊員もこの山頂からの景色を眺めただろう。そして、今と比べてその景色のカタチは変わらずとも足下の灰色と黒色はなかったはずだ。何しろ白色地帯だったのだから。町並みを見渡すと、正確にはわからないが少なくとも万単位の人口を擁しているだろう。ずいぶん開発したものだなあ。
山から下りて今度は河に向かう。マンクイ河とビストラヤ河の合流点だ。マンクイ河について、その上流を渡河した探検隊の支隊の一員は以下のように記している。「カラマツにまじって、みずみずしい広葉樹がスクスクとのびて、河辺林をつくっていた。…この河辺林の印象は強烈だった。ドロやケショウヤナギ、ヤナギ類の木立ちは、…あおあおともえていた。すばらしいシラカンバの新緑。ゆたかな河の流れは、すこしにごってはいるが、うつくしく林内をうねっている。河辺林は、うっそうと小暗くしげっているにもかかわらず、なんとあかるく、ゆたかに感ぜられたことだろう。日の光は、あお葉をとおして、水面にキラキラとおどった。かつてなかったほど、小鳥たちが数おおくさえずっていた。野地坊主の青草も、眼のさめるようにふさふさと、水べにのびしげっている。…だれもが夢中になったのも無理はない。」さらに、私が訪れた合流点を通過した本隊の一員は、「その上流で支隊をよろこばせたのよりも、いっそうすばらしい河辺林をもち、申しぶんのない川原の砂地をもっていた。ただ、夕ぐれにおそいかかるカの大群だけが、どうすることもできないゆううつであった。」と記している。河の素晴らしさについては引用文からも十分うかがい知れると思う。けれども、私が訪れたのも夕刻だったのでカの大群に出くわし、釣りどころではなくホウホウの体で引き上げた。
帰りの道すがら、営林署の運営する自然展館を見つけた。開館時間は過ぎていたけれど、北京から来た旨を伝えると学芸員の湯さんは喜んで案内してくれた。動植物の展示が充実した立派な施設だった。この町は1964年に開発が始まったこと、今は自然保護に力を入れていることなどを丁寧に説明してもらった。
夕食を終えて宿に戻ると、自分の寝床が勝手に変えられていた。客が増えたので部屋ではなく宿の広間の簡易ベッドで寝てくれとのこと。先客なんだからちゃんと部屋に泊めて欲しいのに。常連客優先のようだ。広間では深夜まで他のお客がテレビを見るのでなかなか寝られない。それでも他のお客とけっこう楽しくお酒を飲みながら夜を過ごした。
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(5)一路ハイラルへ
翌日の朝は早かった。マンクイ鎮を発つ旅客列車は午前6時35分発の日に一本のみだからだ。6時頃に駅に到着すると切符売り場はすでにかなり行列している。派手な格好のトレッキングの旅行者などもけっこう多い。客車に乗り込むと、昨夜同宿した高校生くらいの若者がすでに乗り込んでおり私に声をかけてきた。話を聞いてみると、マンクイ鎮から汽車で2時間ほど南下した小村に実家があり、本人はそこからさらに南の根河市の高校で寄宿生活をしており、今回は休暇で漠河に住む親戚を訪ねての帰りで実家に戻るところだという。かつて白色地帯と呼ばれた場所を高校生でも一人で行き来する。すっかり生活ルートになっているのだ。列車はビストラヤ(激流)河に沿って南下していく。ところどころで停車する小駅からは、たいていグループの学生達が乗車してくる。おそらく自然の中で休暇を楽しんだのだろう。出発時には閑散としていた車内は、まもなく立ち客が出るほど混みだし賑やかになった。8時半過ぎに高校生が下車するという金河駅に到着したが、駅舎もホームもなく貯木場があるだけで住宅も見えない。近くに林業基地でもあるのだろう。駅には父親が迎えに来ており、高校生は父親の姿を認めて嬉々として下車していった。そのあたりから列車はだんだんと登り勾配にさしかかる。ビストラヤ(激流)河とガン(根)河支流の分水嶺に分け入ったのだ。列車は速度を落とし、きつくなった勾配をあえぎあえぎ登っていく。峠の駅で下り列車との交換で小休止。あたりは見渡す限りの森林地帯だ。ここからは軽快に速度を上げながら峠を下りていく。掘削した岩肌が手に届くほど窓に迫ってくる。そして山肌に寄り添っての連続したカーブ。建設はざぞかし難工事だったことだろう。
峠を下りきり平野が開け10時42分に根河駅着。鉄路はここから牙克石方面に伸びているが、かつての探検隊と同じルートを辿るため列車を降りた。このあたりで探検隊の隊員は馬オロチョンのユルタを訪問している。馬オロチョンは馬を飼育する狩猟民で、森林ステップという環境に即した生活型を有し、その居住地は限定されていた。隊員の眼に馬オロチョンは不健康に映り、陰鬱な空気を感じたという。というのも、日本軍に協力することで最低限の生活は保障されたが、それにより狩猟生活への積極性が失われたからだろうという。特にトラコーマという眼病が子供にまで蔓延している惨状を報告している。そして、軍が要求する「自然民族の軽快な行動性と射撃技術とは、トラコーマがかれらの眼をむしばんでゆくように、日に日にうしなわれてゆきつつあ」る、と皮肉を込めて綴っている。
根河からは自動車でガン河に沿って、探検隊の出発地である三河地方をめざす。120kmほどの道のりを1時間半ほどで飛ばす。森林ステップのところどころに半農半牧の小さな集落が点在する。気持ちよく晴れ渡った青空と緑と黒土の色のコントラストが眼に焼きついた。そして三河地方の中心地アルグン市に着く。探検記には、三河地方は自然地理的には「シベリア的世界とモンゴル的世界の境」にあたり、ザバイカルからの白系ロシア人の入植者が主体で「西洋文化の田舎くさい片端が、国境をこえて顔をのぞかせている」と形容されている。興味深い場所だ。今もアルグンの街にはロシア系の顔が多く見られ、週に1便国際バスがアルグン河を超えてロシア側と往来している。(かつての中心地で探検隊の出発地であったドラガチェンカ(現在の三河鎮)という場所でここから20kmほど離れている。)アルグンからハイラルまでは高速バスが頻繁に出ている。所要は2時間ほどだ。あっという間に着いた。わずか数日ぶりの都会なのに人ごみが新鮮に映る。
翌日、ハイラル郊外の旧日本軍ハイラル要塞跡に出かけた。いま地下要塞跡は観光地となっていて、夏とはいえ肌寒くじめじめとした薄暗く長い地下道をえんえんと歩いて見て回る。外に出ると眩しい光。南に開けたホロンバイル平原から北の丘陵地帯まで一望に見渡せる。かつてここを越えた一隊員は記している。「最前線をこえて、軍事的な真空地帯にでたという心安さが、われわれの気もちをかるくした。ここからアムールの江岸までゆこうとする探検隊の道の支配者は、関東軍ではなくて、自然である。」若い気概が伝わってくる言葉だ。と同時に時代の移り変わりを感じさせられる言葉でもある。(了)
付記
この旅から5年以上経って、ふとしたことからオロチョン族の親しい知人ができた。それで、その方の故郷であるジャグダチ(加各達奇)から近いオロチョン自治県の阿里河(アリホー)鎮に2013年以来調査で通うことになった。人との出会いとは不思議なものだ。この旅の時には文献だけの縁遠い存在だったオロチョンが、今では友人なのだから。
(初出)NPOユーラシアンクラブニュースレターに2005年から2006年にかけて5回に分けて掲載。一部改変。