いま中国の北京で暮らしている。探検部の現役部員の頃から10年余りの時が経ち、紆余曲折を経てこの地に身を置いてみると、“探検”という行為について改めて考えさせられることもある。過去の自分を振り返りつつ、今の思いを素描しておきたい。
中央アジアに憧れを抱いて探検部に入部した私にとって、もっとも印象に残る現役時代の思い出は、1993年の夏にカスピ海北西岸にあるカルムイキア共和国を訪れたことだった。まだソ連邦崩壊の直後で外国人に開放されて日も浅く、そこは自分にとって心理的な空白地帯だった。当時は、現地に出かけてそこに生きる人たちの暮らしぶりを垣間見られただけで満足だった。
学部卒業後もNGOの活動を通じて中アジアとの関係を保ち、カルムイキアへも何度か足を運ぶうち、そこに元兵士でシベリア抑留の後そのまま残留したというただ一人の日本人男性が暮らしているという話を聞いた。そして、首都から遠く離れた小さな寒村に当人を訪ねてみる機会をもつことができた。
その男性は“中川サダオ”と名乗ったが、名前の漢字はすでに忘れており日本語も片言しか出てこない。東京出身で軍学校を卒業してパイロットになり、南方戦線に従軍して戦果を挙げて表彰もされ、のちサハリンに転属して敗戦を迎えたという。抑留後は帰国を許されたのだが、自分の意志で残留する道を選んだ。その理由としては、惚れた女性がいたためだとか、病気療養のためだとか、尋ねる人ごとに答えも変わるという。語れない事情もあるのだろう。シベリアを離れてウズベキスタン・ダゲスタンと移り住み、ようやく安住の地を見つけた。当地で三番目の妻や義理の娘とともに住み、人造湖の水位管理の仕事をしながら、村の子供達に“サーシャ”と慕われつつ一緒に釣りを楽しみ、穏やかな老後を過ごしていた。日本への帰郷を望むかという問いには、はっきりとは答えてくれなかった。
印象深かったのは、「ありがとう」という力強い声と、私達の車がステップの一本道を帰りお互いが地平線の彼方に消えるまで、いつまでも直立して手を振り続けてくれたことだ。カルムイクには“アルグ・ホルワ”という言葉がある。“人生さまざま”という意味だそうだ。広大無辺の大地にそれぞれの人生があり、その一つに中川さんの数奇な個人史がある。それは、「はるばる遠い所までやって来たなあ」という自分のそれまでのやわな感慨を打ち砕くものだった。同時に、個々の人生の背後にあり、それを翻弄する歴史の重みを感じた。
私は北京で教員をしている。昨年(2005年)は中国全土で反日運動が巻き起こった。だが、職場は大学院大学なので学生たちは自分と同世代かそれ以上で年齢層が高く、彼らの多くは“89年”を肌身で体験しているので冷静だった。北京で一番激しいデモのあった4月9日も、学生たちとちょうど満開だった桜の下で、日本酒を飲みつつ花見をして交歓した。しかしそれでも、職場における唯一の日本人として、彼らから時として冷水を浴びせられるような質問や批判を受けたりすることもある。そうしたとき、まだ私は彼らと自分がともに納得できるような答え方を知らない。無色透明な異邦人としてはありえない自分の立場を感じ、自己の出自を顧みざるをえない瞬間である。
中国に暮らすことになった直接のきっかけは、縁あって内モンゴル自治区出身のモンゴル族女性と結婚したことだった。異文化への興味は以前から漠然とあったのだが、まさか自分の家庭が異文化共生の実践の場となるとは思ってもみなかったことだ。環境をまったく異にして生きてきた者同士では、ちょっとした異文化体験としてではなく“日常”として共同の生活を営むのは、それぞれの風習のちがいからけっこう骨が折れるものだ。だが、そうした表面上の問題はさておき、内面で沸き起こるのは両地の歴史的因縁を看過することはできないという思いだ。
妻の故郷のある自治区の西部は、かつては蒙疆と呼ばれ、張家口を中心として日本の傀儡である蒙古連合自治政府が置かれた場所である。親戚となった人たちを訪ねて各地へ足を運ぶと、あちらこちらで支配者の夢の痕跡に出くわしたり、日本軍の“五原作戦”と呼ばれる戦闘で、故郷を追われ陰山山脈を越えはるか北方の草原地帯まで逃避行した冒険談をしみじみと語ってくれたりする。昨年の秋に催された義弟の結婚式の折には、田舎から出てきた文盲の親戚が、おそらく知っている唯一の日本語なのだろう、「バカヤロウ」と連発しながらニコニコと親しみ深く私に声をかけてくれたが、あとで「それはどういう意味ですか」と真顔で尋ねられた。みな悪気はないのだが、こちらは苦笑するばかりで答えに窮してしまう。
冒頭で、“探検”について考えさせられると書いたのも、こうした自分の今の立場に関係する。言うまでもなく、探検部の源流のひとつには、戦前・戦中の蒙疆をフィールドとした輝かしい探検の歴史がある。同地におけるそのほか数多くの探検や調査と見比べても、やはり圧倒的に京都学派の比重は重い。そもそも同地でなぜ探検が可能であったかといえば、当時の支配と被支配の関係を抜きには考えられない。さらに、探検や調査の成果は、純粋に中立的なものとしてはありえず、植民地あるいは戦争といった実際上の政策と深く結びついていたことは明らかだ。もちろんマージナルな領域である関係上、単純な二元論に還元できない複雑な背景も考慮しなければならないのは当然だが。こうした問題が机上の論理としてではなく、身近な問題として差し迫ってくる。自分が同地に身内を持つことになったと同時に、京大の探検的伝統の最末端に身を置く者として、過去の歴史的状況の中での“探検”の功罪を明らかにすることの責務を感じる。学部卒業から久しくなり、日本を離れたというのに、むしろ心の中では原点を探し求めている自分に気がつく。
私は将来にわたって、民際交流として環境やマイノリティの課題を通して内モンゴルと関わっていきたいと希望している。その際には現地の仲間と「する」とか「される」というのではなく対等な関係を結びたい。そのためには、「“いま・ここ”にいる自分の軸足がどこにあって、どんな眼差しで現地に関わるのか」という自分の立場を明確化する問いかけに常に真摯に向かい合っていかなければと思う。その前提となるのが、過去の日本と現地との関わりについての正しい把握だ。現地の知人に「探検についての歴史を調べるのだ」と言うと、「スポーツとしての探険ですか?」と問い返されることが間々あって驚くことがある。現代中国語では“探検”という言葉は一般的ではないようだ。「探検される側」にあった人たちとの認識のギャップの大きさを感じる。前途は多難だろうけれど、その両者のギャップを埋めながら、先の問いかけに対して自分なりに納得できる回答を見つけたい。それはまた、今はまだ幼い日本とモンゴルの血を引いた息子に対して、将来語るべきことでもあると感じる。
(以上)
(初出)『京大探検部【1956-2006】』pp497~501